− さらば電大神田キャンパス −
まもなく、神田キャンパスが消えてなくなります。一つの歴史の終わりでもあり、次の時代への発展でもあります。半世紀前私たちはここを中心としていろいろ勉強して、今日に至っています。 懐かしい気がしてなりません。寂しい気持ちでいっぱいです。発展的解消という言葉があります。正に電大の発展期と捉えることにしたいと思います。
そこで、神田キャンパスの見納めをしてきました。 遠方にいて見納めができない方はゆっくりとご覧ください。画像をクリックしますと拡大させることができます。
 
 東京神田キャンパスは、北千住駅前に移転し、東京千住キャンパスとして開設されました。
 
なお、※1印は、内桶功一さんに撮影協力をいただきました。
    ※2印は、松村浩司さんに撮影協力をいただきました。
内桶功一さんの神田の思い出をここに掲載しました。こちらをご覧ください。 
内桶さんの神田の思い出はさらに続きます。その2はこちらをご覧ください。
内桶さんの神田の思い出談義はまだ続きます。その3はこちらをご覧ください。 
内桶さんの神田の思い出談義はさらに続きます。その4はこちらをご覧ください。
内桶さんの神田の思い出談義はまだ続きます。その5はこちらをご覧ください。 
内桶さんの神田の思い出談義はまだ続きます。その6はこちらをご覧ください。 
神田松本亭は、電大6号館付近にあった(明治末期のことです)?「神田松本亭付近図(明治末)」を下に掲載しています(「神田錦町 松本亭」(川合貞吉著,1977年,学芸書林発行)から引用。   
さらに、すごいことが分かってきました。女優の加賀まりこは、神田小川町の生まれであることはよしとして、内桶功一さんと小川小学校、一橋中学の同窓であった。さらに神田松本亭の女将松本フミは加賀まりこの祖母であったことです。人間何処で繋がるかわからないと言いますが全く同感です。 
「神田錦町 松本亭」(川合貞吉著)から、松本亭の移り変わり、その規模、松本フミの生涯などについてまとめてみました。さらに、加賀まりこ著「とんがって本気」(新潮社)により、松本フミと加賀まりこの関係についてもいろんなことがわかりました。こちらをご覧ください。
さらに、「工学情報」(昭和57年3月号)の「神田界わい歴史散歩」(藤田豊先生)の記事や「工学情報」(昭和59年12月号,校友会創立75周年記念特集号)の蓮見孝雄先生の記事において「松本亭」について記載しています。
 また、第1回目と2回目の卒業生(35名)による校友会発会式を「松本亭」で開催したという記録があるそうです。残念ながら写真がありませんが。こちらをご覧ください
                                  平成24年4月16日
   中村隆昭
  神田キャンパスの配置図です。
 
   神田キャンパスの裏手、神田警察通りに「電機学校発祥の地」と記した石碑があります。この石碑は永久に残るでしょう。(※1)
   「電機学校発祥の地」の石碑には、
「1907年9月11日 電機学校この地に設立さる 幾多の有為なる人材を世に送り その使命を今東京電機大学に託す」と記されています
   2人の創立者(廣田精一、扇本眞吉両先生)の肖像画が刻まれています
   現在位置と電機学校発祥の地が対比してわかるようになっています
   「第一回卒業式の記念写真」とあります。電機学校第1回の卒業生の皆さんです。
   本館の門です。半世紀前と変わっていません。懐かしいですね。でもこの本館と門も壊されてしまうようです。通心会の忘年会において「保存できないか」という声がありました。
   本館の門左側に掲げられている全学部・学科の名称です。これも千住キャンパスに移転してしまうでしょう。(※2)
   シャッターが下された本館の門です。上の写真と比較すると何とも寂しげでありませんか。
まもなく、こういった光景も見られなくなります。(※1)
  神田キャンパスの目ぬき通りです。ここも半世紀前とは変っていません。校門の前にトラックが止まっています。佐川急便のトラックです。佐川急便の集配所があるのです。やがて全く違った景観となることでしょう。 
   上の写真と同じですが、若干アングルが違いますので、趣を異にしています。(※1)
  靖国通りの方から来て、本館を見たものです。周囲の商店街は半世紀前と大きく変わりましたが、基本的にはあまり変わっていないように思えます。
  上の写真とアングルが違いますので、趣が違いますね。 (※1)
   こちらは、7号館の建物で、教室として使用されてきました。半世紀前にはありませんでした。当時は中央大学の一部でした。私たちが卒業した昭和43年頃に建てられたものです。そのため耐震診断の結果、基準の70%とわかり、昨年耐震化工事が実施されました。したがって、この建物はこれからも残るのでしょう。
   上と同じ写真ですが、やはりシャッターが下りていますので、活気がありません。(※1)
   神田警察通りに面した神田キャンパスの標識です。これも取り壊されるでしょう。右側の建物は神田警察署です。その壁際に、「電機学校発祥の地」の石碑があります。(※1)
  こちらは5号館です。私たちの在学中に建てられたものです。したがって、建造されて半世紀経過したことになります。古くなって汚く見えます。おそらく、取り壊されて新しいビルに建て替えられることでしょう。 
   上と同じ5号館ですが、撮影者が違うと捉え方が随分違うのですね。やはりシャッタが下されています。(※1)
   5号館の玄関です。いろいろと貼り付けられていますね。クラブ活動の拠点だからでしょうか。アマ無線部もここを拠点にしていたんですね。(※2)
   神田警察通りから見たところです。右側の建物が7号館。中央の木の向こう側の建物は神田警察署です。(※1)
  右側奥の建物は11号館です。この建物は売却されることになっていますのでどんな形で余生を送るのでしょうか。
更に中央手前の低い建物は6号館です。また中央奥の建物は7号館です。 (※1)
   右手前の建物は神田警察署、その右手奥は本館、左奥は14号館です。神田キャンパスの裏側ですね。(※1)
   上と同じ位置から見たところです。中央の高い建物が11号館。その手前の低い建物は12号館です。
   この建物が6号館です。当時地下に食堂がありました。左側の小さいドアから入ったものです。大抵メニューが肉でマトンでした。
(注)この6号館の場所に「松本亭」があったそうです。
   この茶色の建物は10号館です。校友会事務局と出版局が入っています。校友会事務局も出版局も千住キャンパスに移転することになります。(※1)
  上の写真の表札を大きくしたものです。
校友会館・出版局とあります。 
  日比谷通りと神田警察通りの美土代町交差点 角に位置している建物で、15号館です。この建物だけは残るようです。
この建物には入試センター、国際センター、産官学交流センター、学長室、総務部、経営企画室など大学の管理部門があります。(※1)
   裏側の神田警察署の並び、神田警察通りに面してB棟という建物(左側の建物)があります。何に使用されていたのかわかりません。(※1)
  左の建物が12号館です。普通のマンションとかわりません。研究室として使用されたそうです 。
位置は本館と正反対の西側になります。
   この建物が14号館です。
12号館と14号館は並んでいます。
   茶色の1階部分だけがC棟と言われていました。3月16日に撮影したために、引っ越しが完了してシャッターが下りていました。
総合メディアセンターの図書閲覧室として使用されていました。
   御茶ノ水アネックスと言われた建物です。本郷通りを小川町交差点から20m行ったところです。
3月16日現在、すでに引っ越しが完了していて、「TDU東京電機大学」青字の文字だけが残っていました。
   すずらん通りの入口ですね。昔の面影は全くありません。時代の移り変わりを感じさせます。(※2)
   アーチに「神田すずらん通り」とあります。上の写真の「軍学堂」とあるあたりの上の方です。
   アルバムに当時(昭和39年)のすずらん通りの写真がありましたので掲載します。
この写真を撮影されたのは持丸さんだと思います。掲載をお許しください。
多分、同じ位置ではないかと推察します。当時は「神田すずらん通り」のアーチがあったんですね。
  上の写真とほぼ同じところです。文銭堂(和菓子屋)はありました。その女将(かなりご高齢)に、上の写真を見せたところ懐かしそうに見ていました。「神田すずらん通り」のアーチがいつなくなったかと尋ねたがわからなかった。 
  「天下一そろばん」の看板がなかったので、よく見ると看板ではなく、窓越しに「天下一そろばん」と貼り付けてあり、下の窓にはそろばんが掲げてありました。 
  靖国通りの駿河台下交差点からお茶の水駅方面を見たところですね。ここもすっかり景観が変わってしまいました。(※2) 
  神田といえば、ニコライ堂を忘れてはいけません。小川町からお茶の水駅までの道すがら毎日見てきたものです。
ニコライ堂は明治17年3月に起工(竣工は明治24年2月)され、当時、東京ではじめての西洋風の高層建築物であった。 (※1)
   豊川稲荷神社と電大とが関連があり、しかも電大の構内に鎮座いしていた?そうです。
豊川稲荷は東京都内たくさんあります。南千住にもあります。
しかし、本家は愛知県豊川市の豊川稲荷神社です。(※1)
  電大のもう一つの守護神「五十稲荷神社」だそうです。小川町の元南明座裏に在ります。通称「ゴトウ様」と言われています。 (※1)
   「神田錦町 松本亭」(川合貞吉著,学芸書林発行,1977年)に掲載されていた「松本亭付近図」です。鮮明度が悪いですが、クリックしていただければ拡大表示されます。
この地図は明治末期のもののようです。
錦町署は、現在の神田警察署。
神田区役所は、後に中央大学錦町校舎となり、現在の電大7号館でしょう。
中央大学はちょっと符合しません。
松本亭は、現在の電大6号館となるのではないでしょうか。

   「顔のYシャツ」といわれている「あつらえYシャツの専門店」だそうです。詳細は「内桶功一さんの神田思い出談義(その6)」を参照してください。